室内楽をしていると、クラリネットと共演することが多い。弦と合わせて美しいアンサンブルを奏でることができるクラリネット奏者やピアニストは、相当な腕前である。
ピアノはもちろん、クラリネットはほとんどヴィヴラートがかからない。その単純さゆえに名手の演奏にはこの世のものとは思えない美しさがある。
同じ管楽器でも、オーボエは常時ヴィヴラートがかかっているように聞こえる。また、クラリネットや金管楽器であっても、ジャズやポップス系の音楽では、クラシックより頻繁にヴィヴラートがかかっている。
これら、シチュエーションや楽器によって、ヴィヴラートの違いが出るのは何故なのか。また、どういう、あるいはどんな時のヴィヴラートが美しく、またそうではないのか。これらはわれわれチェリストを含めた、演奏者の永遠の課題だ。
ヴィヴラートは、楽器演奏だけに現れるのではなく、むしろこちらの方が原点だと思うのだが、声楽においては、ヴィヴラートはなくてはならないようなものに見える。「見える」と表現したのは、なくてはならないものが、実は不要なものだという風にも言えるようだからだ。
オペラ歌唱を茶化した演奏など、たとえばテレビのバラエティーやコマーシャルなどで、ピッチが半音近く変化するヴィヴラートをかけていることがある。これは、そういう演奏がステロタイプで笑いを誘うから、なのだろう。名演奏と言われるオペラを聴いたことがあれば分かるはずだが、クラシックの正統な演奏においてそんなにピッチが変化するヴィヴラートがかけられていることはない。そもそもピッチが変化すると音程感が薄くなり、たとえばモーツァルトの音楽(それがワグナーであっても)が台無しになってしまう。
さて、そういった美しい正統な歌手の演奏は、声楽の専門家に言わせると「ヴィヴラートがかかっていない、良い演奏だ」と表現することがある。これはどういったことなのか。チェロの通常の演奏にヴィヴラートがつきもので、それと似たような現象があるにもかかわらず、これはヴィヴラートではないというのだ。
お互いちょっとしたレトリックの違いはあるかもしれない。人に技術を教えるとき、感覚を表現するのに、特に音楽の専門家以外に物事をわかりやすくするために、ちょっとしたレトリックを使うことはある。しかし、ここには単なるレトリックの違いを超えた、重要で、本質的なものがあるようにも感ずるのだ。
それが「可能」であれば、ヴィヴラートのかかっていない比較的平滑なエンベロープを持つ音を出すことは、美しさにつながる。それは楽器の構造に大きく起因している。木管楽器ではクラリネット、また多くの金管楽器などは、エンベロープに対して安定した構造になっているのでそれが「可能」なのだ。
一方それが不安定なオーボエやフルートなどは、平滑なエンベロープを持つ音を出すことが難しい。これらの管楽器はエンベロープを維持することだけでなく、ピッチを維持することも難しい。こういった楽器のヴィヴラートは、一つの目的として、もともと楽器の持つ不安定さを逆に安定させるためのもの、と言えないだろうか。
歌唱もそうなのであろうことは想像に難くない。歌唱は発声において、呼吸法を学び、腹筋や横隔膜の意識を学び、そのうえでしっかりとした体の支えで歌う。この体の支えが、管楽器の共鳴体であり、声帯がマウスピースとなぞられることが可能だろう。それらが不安定であれば、音程まで不安定な大きなヴィヴラートがかかった不快な声となり、安定していればヴィヴラートの少ない安定した音が出る。声楽家にとっては、安定した発声のできる体作りは欠かせないのだ。
であれば弦楽器もそうだと言えるだろう。管楽器と同じように弦楽器はその体自体は変化させることはない。というより、体自体を変化させることができるのは声楽だけである。変化させる部分は、発声体であるボウイングと、ピストンやキィに相当する左手のフィンガリングである。
話を進めるにおいてここで整理しておかなくてはならないことがある。すなわち、ヴィヴラートとは、「かける」ものなのか「かかる」ものなのか、ということである。筆者の感じる今の現実は、これらは二律背反するものではなくどちらもある。
ただ、ヴィヴラートのという項目は前者として語られることが多く、後者として語られることはほとんどないように思う。ところが、良い演奏、これはなにもうがったことを考える必要はなく、巷にCDなどとして流通する一流の名手などの演奏でよいが、そこへのアプローチを考えたとき、後者の重要性のほうがはるかに大きいように思う。上記のこれまでの議論は、完全に後者のアプローチである。
また、後者のものであるにもかかわらず、前者として語られることも多い。これは無理もないことであり、次へ論をするめるにあたっても、これらを混同せずに語ることができるかは筆者にもあまり自信はない。やはりヴィヴラートもほかのテクニックと同じように、それを作り出すにおいては、演奏者の主観、そして感覚的なものであるから、ある程度のレトリックが生ずるのはやむを得ないことかもしれない。
さてエスキューズはこのくらいにして本題に戻そう。
弦楽器のヴィヴラートといったが、少し責任範囲を狭めてチェロのヴィヴラートに話を絞ろう。ヴァイオリニストはこの世にごまんといて、彼らのことは彼ら自身に考えてもらいたい。しかし、もしこの話が多少なりともヒントになれば幸いだ。
チェロの演奏において、常時動的な状態にあるのは、ボウイングとフィンガリングである。フィンガリング、というと指使いのみに思われそうだが、ポジショニング、シフティングといった左手及び左腕全般のテクニックを、ここではフィンガリングと呼ぶことにする。指をどう運ぶかが左手のテクニックである、と考えれば、左腕全般の動きも、それは含むことになると考える。
ヴィヴラートは、フィンガリングのテクニックである、と思われている。それは否定しえないが、ヴィヴラートが音の安定性を担保しているという、つまり「かかる」ものだと考えるとそう単純なものではない。
実はノンヴィヴラート奏法、といったものがある。常に解放弦を弾いているような弾き方をするのである。このように、例えばクラリネットのように、平滑なエンベロープに近い形で演奏することは可能である。古楽を演奏するようなシチュエーションで使用することが多い。
モダンの楽器、つまりいま普通に手に入る楽器を使用してノンヴィヴラートで弾き続けようとすると、かなりストレスが溜まる。楽器の初心者がヴィヴラートをかけることが出来ないのは、ほぼ左手に力が入りすぎているからだが、そういった状態を力を入れずにわざと作り出さなければならないのは、実はボウイングも含めてきわめて大変である。
大変ではあってもそれが成功すれば確かにいい音が出る。解放弦を良い音で弾いているのと同じ理屈だ。それが可能なのは、バロックチェロといった古楽用にチューニングされた楽器を使用し、フィンガリングかかるストレスが少なく、巧みなボウイングをもって小さいながらも豊かな響きを作れる状態において有効なのだ。
モダンの楽器はそういった演奏には向いていない。スチール弦が張れるように楽器は改良されており、そのためフィンガリングには比較的大きなストレスがかかり、ボウイングは豊かな音量を求められる。モダンの楽器で常時それを弾くのは、例えばオーボエをノンヴィヴラートで弾く、に近い困難さがあるように思える。
すなわち、音を安定させるのに困難なストレスが、フィンガリング中に常時存在するということなのだ。しかしそれでも安定しているに越したことはなく、むしろ安定したピッチで、ピッチの揺れることのない左手の強さ、しなやかさ、脱力、これらの矛盾を止揚したところにあるフィンガリングの技術を求められる。これらは、安定した発声ができる体つくりをする声楽家と同じである。
そしてそのうえでなおかつ存在する、もともとミニマルに持っている演奏者および楽器の揺らぎがヴィヴラートとして表現されるのだと、いったん考えてみたい。これが「かかる」ヴィヴラートである。この文章を注意深く読んでいる方はお分かりのように、この状態は、一部の声楽家に言わせるとヴィヴラートが「かかっていない」、良い状態と言えるのだ。
それでもなおかつ、名手の演奏を聴いて、そんな消極的なヴィヴラートしかかかっていないようには思えないかもしれない。たしかに、ここに、マイスキー、ヨーヨーマ、カザルス、シュタルケル、藤原真理、長谷川陽子などのCDがあるけれども、どれも個性的で美しいヴィヴラートがかかっているように聞こえる。しかし、実はこれらは、基本を忠実に追求したうえでの、頂点だけに存在するミニマルな揺らぎなのだ。そしてだからこそ、そこに大きな音の差が表れると言えるだろう。
ヴィヴラートが大きくかかっているように聞こえる理由はもう一つある。それは優れたボウイングだ。耳だけで彼らの演奏を真似しようとして、左手を大きくくねらせて振動させ、音程までも変化させる悪質で聞くに堪えないヴィヴラートをかけてしまうことはないだろうか?しかしそんなことをついついしてしまうほどに、名手のヴィヴラートは大きく美しい。
ヴィヴラートをボウイングでかけている、というわけではない。あるいはそう表現する人もいるけれでも、右手で音のエンベロープをゆらゆら動かしているわけではない。そうではなく、正しく美しいまっすぐなボウイングは、勢い弦の振動を大きくする。弦の振動の大きさは、デシベル的に言えば大きな音と言えるかもしれないが、実はディナーミクがピアニシモであっても、遠くに響かせるためには弦を十分振動させなければならない。いわんや、フォルテシモにおいておや、である。
そしてそのよく響いた弦の振動が、ミニマルな揺らぎを大きくする、ということだ。弦が振動すれば、ピッチの不安定さが増す。それらを安定した状態とするためにヴィヴラートがより増幅されるのである。こういうことにおいても、チェロにおいてどれだけボウイングが重要かを知ることが出来る。このボウイングによるヴィヴラートの増幅は、C線のような低弦により強く感じることが出来る。低い弦を響かせるためには、より大きな振幅が必要であるからだ。
すなわち「かかる」ヴィヴラートとは、安定してよく響くチェロの音を出すためのミニマルな揺らぎであり、しかしまた、そこに演奏者の個性が大きく現れるのである。
最後に、「かける」ヴィヴラートの話をすこししておこう。チェロにおいては「かかる」ヴィヴラートを超えて自分で「かけよう」とすると、音程の変化する聴きずらいヴィヴラートとなる。これはどんなクラシック音楽においても同じだし、多くチェロが使われるあらゆる音楽において同じである。
実は、チェロ演奏において、おそらくは「かける」ヴィヴラートが多すぎるという批判を言い出したのは、フルニエなのだと藤原真理さんに教えられた。なにか古くからある概念のように書いてはみたが、余計なヴィヴラートが不快なものなのだという美的観念は、比較的近代的なものなのかもしれない。
「かける」ヴィヴラートがジャズやポップスにおいて多いと書いたが、それは、そうすることによってそれらの音楽が美しくなるからにほかならない。「かける」ヴィヴラートがピッチを変えることにあるのであれば、そこに正当な理由があるのである。
よく、クラシックの先生が「演歌みたいなヴィヴラートをかけるな」と言ってしまうが、それは演歌歌手に失礼な話である。要するに、演歌を聴かないということなのだろうけれども。
演歌歌手であっても、うまい歌手はそんなヴィヴラートを頻繁にかけたりしない。オペラ歌手と同じである。演歌に特徴的なのは、絶妙なタイミングで入るコブシやシャクリといった、クラシックでいえばロマンチックなポルタメントに相当するもので、これらはもともとピッチを操る高等な歌唱法でヴィヴラートとは違うのだが、これらの特徴を若干はき違えているのではないか。
確かにピッチを変化させるヴィヴラートのようなものをかける場合がある。もしそれを常時かけているといたら、単に練習不足で支えのなくなった喉なのだろうが、これはきっちりとた意味をもつところにあるはずだ。うまい演歌歌手の良いタイミングで「かける」ヴィヴラートは、さすがだと思うことも多い。
これはなんなのだろうか。実はオペラアリアでも似たようなことがある、しかし通常それはヴィヴラートとは呼ばれず、トリルと呼ばれている。アリアでのトリルは、演歌でいうヴィヴラートに似ているのだ。すなわちどちらも、音楽上必要な、あるいは必要を超えて美しさを添える装飾なのだ。
こうった装飾は演歌に限らない。注意深くジャズのスタンダードナンバーを聴いていれば、ソロが効果的なヴィヴラートをかけるところは総じて装飾的である。クラシックよりも自ら装飾の幅の広いジャズやポップス、演歌などには、「かける」ヴィヴラートを効果的に使用できる範囲もまた広いと言えるだろう。
もしチェロでそれをするとしてもやはり、「かける」ヴィヴラートは装飾、すなわちアドリブである。良い響き、良い音を出す以上に、アドリブがそこに必要であろうか。クラシカルな場面では特に、否と言える。もしポップな場面で、チェロにそういう要望はあるとすれば、どうするか?
音楽は変化し、文化も変化する。ここで明確な結論を出す必要はないだろう。
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