音楽

2018年3月26日 (月)

ルソー 「エミール」抜粋

Mais, premièrement, au lieu de les lire on peut les ouïr, et un chant se rend à l’oreille encore plus fidèlement qu’à l’œil. De plus, pour bien savoir la musique, il ne suffit pas de la rendre, il la faut composer, et l’un doit s’apprendre avec l’autre, sans quoi l’on ne la sait jamais bien. Exercez votre petit musicien d’abord à faire des phrases bien régulières, bien cadencées ; ensuite à les lier entre elles par une modulation très simple, enfin à marquer leurs différents rapports par une ponctuation correcte ; ce qui se fait par le bon choix des cadences et des repos. Surtout jamais de chant bizarre, jamais de pathétique ni d’expression. Une mélodie toujours chantante et simple, toujours dérivante des cordes essentielles du ton, et toujours indiquant tellement la basse qu’il la sente et l’accompagne sans peine ; car, pour se former la voix et l’oreille, il ne doit jamais chanter qu’au clavecin.

483

Pour mieux marquer les sons, on les articule en les prononçant ; de là l’usage de solfier avec certaines syllabes. Pour distinguer les degrés, il faut donner des noms et à ces degrés et à leurs différents termes fixes ; de là les noms des intervalles, et aussi des lettres de l’alphabet dont on marque les touches du clavier et les notes de la gamme. C et A désignent des sons fixes invariables, toujours rendus par les mêmes touches. Ut et la sont autre chose. Ut est constamment la tonique d’un mode majeur, ou la médiante d’un mode mineur. La est constamment la tonique d’un mode mineur, ou la sixième note d’un mode majeur. Ainsi les lettres marquent les termes immuables des rapports de notre système musical, et les syllabes marquent les termes homologues des rapports semblables en divers tons. Les lettres indiquent les touches du clavier, et les syllabes les degrés du mode. Les musiciens français ont étrangement brouillé ces distinctions ; ils ont confondu le sens des syllabes avec le sens des lettres ; et, doublant inutilement les signes des touches, ils n’en ont point laissé pour exprimer les cordes des tons ; en sorte que pour eux ut et C sont toujours la même chose ; ce qui n’est pas, et ne doit pas être, car alors de quoi servirait C ? Aussi leur manière de solfier est-elle d’une difficulté excessive sans être d’aucune utilité, sans porter aucune idée nette à l’esprit, puisque, par cette méthode, ces deux syllabes ut et mi, par exemple, peuvent également signifier une tierce majeure, mineure, superflue, ou diminuée. Par quelle étrange fatalité le pays du monde où l’on écrit les plus beaux livres sur la musique est-il précisément celui où on l’apprend le plus difficilement ?
Suivons avec notre élève une pratique plus simple et plus claire ; qu’il n’y ait pour lui que deux modes, dont les rapports soient toujours les mêmes et toujours indiqués par les mêmes syllabes. Soit qu’il chante ou qu’il joue d’un instrument, qu’il sache établir son mode sur chacun des douze tons qui peuvent lui servir de base, et que, soit qu’on module en D, en C, en G, etc., le finale soit toujours la ou ut, selon le mode. De cette manière, il vous concevra toujours ; les rapports essentiels du mode pour chanter et jouer juste seront toujours présents à son esprit, son exécution sera plus nette et son progrès plus rapide. Il n’y a rien de plus bizarre que ce que les Français appellent solfier au naturel ; c’est éloigner les idées de la chose pour en substituer d’étrangères qui ne font qu’égarer. Rien n’est plus naturel que de solfier par transposition, lorsque le mode est transposé. Mais c’en est trop sur la musique : enseignez-la comme vous voudrez, pourvu qu’elle ne soit jamais qu’un amusement.

2014年2月 6日 (木)

ゴーストライター

 新垣隆さんには13年ほど前に一度お目にかかっている。さる室内楽の演奏会のリハーサルを見学していたとき、作曲科出身だけど繊細でいいピアニストなんだと紹介された。ちょっと変わり者なんだというエピソードを聞いたように思うのだが、そんな音楽家は多いので、どんな話だったかよく覚えていない。ただ、見かけ通り穏やかな人だった。ぼくが部屋の端の椅子に腰掛けて他の人の演奏を聴いていると、音もなく近寄ってきて「その椅子、壊れてますよ」と教えてくれた。ちょっと見にはわかりにくかったものの、椅子の足が一カ所折れかけていたのだ。

 だから、写真と名前をみておもわず「あ」っと声を上げた。

 大騒動になっている話だから、いろんな人がいろいろとこれから言うのだろう。やれ詐欺だの、やれ著作権だの、やれ損害賠償だの。無論、Sがペテン師であることには全く異論はない。

 新垣さんのことが気になって、謝罪会見をついついずっと見てしまった。新垣さんは、自らSの「共犯」であると語り始めた。結局Sのペテンがうまく行き過ぎて、高橋選手の曲の採用で頂点を迎えたように、あまりにも多くの人が悪質なフィクションに騙されているこの事態の片棒を担いでいる形になっていることに我慢できなくなった、ということらしい。Sは欲をかきすぎたのだろう。そして新垣さんを追いつめ、自分自身の首も締めたのだ。

 多くの人がいい曲だと言ってるから、Sが作ろうが新垣さんが作ろうが、いいものはいい、だから’hiroshima’はいい曲だ、というコメントをする人がいる。けれど、売れたからいい曲、名曲、という訳ではないことは古今東西明らかだ。一時間以上に及ぶ長大なオーケストラの曲の芸術的な価値を計る方法とは何なのか、その困難さは想像に難くない。それとヒット曲は別問題であるように思える。つまり、やはり、日本人のあらゆる琴線をふるわせたSのプロデュースが優れていたから売れたのは間違いないだろう。ただその手法が演技、フィクションであり、ひいてはペテンだっただけの話だ。

 新垣さんは著作権を放棄すると言った。多くの人にとっては自分が作った曲に自分の著作権があることが、曲を作る強い動機の一つになるだろう。それが現代の商業音楽の前提条件にもなっている。新垣さんがそういった利益に無頓着なのか、これほどの騒動になったからそう決めたのかはわからない。どっちでもいいという雰囲気も感じられる。
 
 とはいえ、自分の名前で発表したときの収益や名声と比べると、彼が得たものは、今回の騒動も含め、あまりに少ない。Sの欲深の対照のように、彼は無欲すぎたのだろうか。それとも、楽曲を創りだす機会を得るという欲求が、報酬を得る欲望よりも遥かに大きかったのだろうか。

 憶測するならば、新垣さんにとってかつて、Sのサジェスチョンは、楽曲のインスピレーションを得るためのまたとない機会になっていたのかもしれない。ゴーストライターであるという状況もそんな情念に拍車をかけていたのかもしれない。それを断ち切ったいま、新垣さんは「許されるなら、これからも仲間と音楽を続けていきたい」と言った。彼にとって、それが何よりも大切であるように聞こえた。

2013年11月28日 (木)

11月30日の曲目解説

(11月30日演奏の曲目解説です)

 今日のプログラムを思い立った最初のきっかけは、メンデルスゾーンのニ長調のソナタを演奏したかったということでした。近年再評価されているメンデルスゾーンの作品ですが、同時期の巨匠として評価がありつつも日本では少々地味なシューマン。歴史的なこの二人、ドイツ音楽のムーブメントに「ロマン派」の潮流を決定づけた、彼ら天才たちの交流は、知るほどに感動的です。そしてシューマンの多いとはいえないチェロのためのレパートリーから2曲、またメンデルスゾーンからはソナタほか1曲をチョイスし、プログラムとしました。

第一部 ロベルト・シューマン(1810−1856)の作品より

 シューマンは、チェロのソロと伴奏のための曲は、2曲しか書いていないといわれています。そのうち一曲が、本日2曲めの「民謡風の5つの小品」であり、もう一曲は、ハイドン、ドヴォルザークとともにチェロの3大協奏曲に数えられているチェロ協奏曲です。そんなことはないだろうと思われるかもしれませんが、チェロでよく弾かれる本日の一曲め「アダージョとアレグロ」は、もともとホルンとピアノのために書かれた曲であり、またこれもチェロで弾かれることが多い作品73の「幻想小曲集」は、クラリネットのためのものです。後者は、チェロのほかヴァイオリン、ヴィオラ他様々な楽器で弾かれることもあります。
 最初はメンデルスゾーンにあわせて、若干消去法的に組んだシューマンプログラムでしたが、曲を知っていくとともにその深い魅力に魅入られるようになってきました。これらの曲が作成された時期は、シューマンの多昨期と呼ばれる時期であり、彼の生涯においてインスピレーションの喜びにみちた比較的健康な時期だったのでしょう。普段は全体的に陰影の目立つシューマンの曲ですが、この時期の、それでいながらも溢れるエネルギーと明るさが、その魅力をさらに磨いているのかもしれません。

1.アダージョとアレグロ 作品70 (1849年)

 ホルンのソロの為に書かれただけあって、飛躍の多いメロディーが特徴です。メロディーは魅力的ですが、音域の変化が激しく、チェロで弾くと演奏のビジュアルも楽しみの一つかもしれません。
 曲は、古典的なシンフォニア、序曲といったものを彷彿とさせる形式、オーソドックスなカデンツ、ソロとピアノのソナタ的なやり取りでがっちりと作りながら、個性をしっかり出している、さすが巨匠とうならせる小品です。全曲、緩急をつけながら通して演奏されます。

全体で緩-急-緩-急という構成で、楽譜には、速度標語がイタリア語ではなく、ドイツ語で表現されています(訳の稚拙さはご勘弁)。


・緩 Langsam,mit innigem Ausdruck – sehr gebunden 情感を込めてゆっくりと。
・急 Rasch unt feurig 力強く早く。
・緩 Etwas ruhiger すこし静かに。
・急 (Tempo I 最初の急の部分に戻る)

大河の流れのように、怒濤のごとくコーダを迎えます。

2.民謡風の5つの小品 作品102 (1849年)

 数少ないシューマンのチェロソロのために書かれた曲「民謡風」、これをレパートリーとすることの喜びを、今回図らずも知ることとなりました。シューマンといえば、シューベルトと並ぶ代表的なリート(ドイツ歌曲)作曲家です。そのシューマンは、チェロという楽器にいったい何を求めたのでしょうか。その大きな答えのひとつがここにあるように思います。
 これら5曲の小品、ソナタ風にいえば楽章は、それぞれに器楽的なメロディーであり、ピアノとチェロとのデュオでありながら、背景には、まさに民謡風な打楽器、管楽器が聞こえてきそうな遠い余韻を持っています。これは、シューマンがチェロを通して表現したリートあるいは小宇宙と言えるのかもしれません。曲には速度記号というより、表意的なドイツ語が冒頭に書いてあります。一曲めの副題としてついているラテン語の「Vanitas vanitatum」直訳で「空の空」、これ関するエピソードなどはっきりしたことはわかっていません。宗教的でもあり、禅問答的でもある。みなさんは曲を聴いてなにかを感じられたでしょうか。
 5曲通してお聞きください。

  I ”Vanitas vanitatum” Mit Humor なんと空しい(?)しかしユーモアを持って。
  II Langsam ゆっくり
 III Nicht schnell, mit viel Ton zu spielen 急がず、豊かな音で弾きなさい
 IV Nicht zu rasch 早すぎないように
  V Stark und markiert 力強く際立たせて

第二部 フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809−1847)の作品より

 メンデルスゾーンといえば、皆さんはどんな曲を思い浮かべますか?たとえば、結婚行進曲、春の声、歌の翼、あるいはヴァイオリンコンチェルト、交響曲「イタリア」。メンデルスゾーンの印象は「裏切らない」。裏切らず明快、軽快、壮大、憂鬱。明るい感情も暗い感情もどちらも裏切らずに、素直に、そして天才的に音楽に表現する。ゲーテがモーツァルトを越える天才と評価した彼には、二つの大きな暗い影がありました。ひとつは根強かったユダヤ人差別であり、もう一つは遺伝的な病気によるといわれる早逝。
 これほどの天才が現代になってやっと、よりふさわしい評価がなされてきているのです。

3.協奏的変奏曲ニ長調 作品17 (1829年)

 若かりしメンデルスゾーン。ヨーロッパ中を駆け巡りながら、今に残る名曲を発表し、名声を勝ち取っていく、そんな時期が始まろうとしている20歳。
 メンデルスゾーンの弟もチェリストであったといいますが、このかわいらしい変奏曲の小品に協奏的という題名がついているのは、見かけによらないテクニカルなメンデルスゾーン自身によるピアノパートによるところも大きいように思えます。あるいは兄弟で楽しむために書かれたのかもしれません。
 ピアノによる主題の提示、それをチェロとのDuoで壮大に、かつチャーミングに変奏されていきます。
 主題、第一変奏から、第八変奏、そしてコーダと一気に演奏されます。

4.チェロソナタ第二番ニ長調 作品58 (1843年)

 弟パウルやチェロの名手ピアッティ(チェリストに取っては難しいエチュードの作曲者として有名ですが)の助言によって完成されたチェロソナタ第二番は、まさに裏切らないメンデルスゾーンを体現しています。リストやショパンの向こうを張る希代のピアニストでもあったメンデルスゾーンの本領発揮と言えるピアノパート、そして優雅かつ壮麗なチェロパートの響宴を楽しんでください。
 まるで風が駆け抜けるような、全4楽章。お楽しみください。

I. Allegro assai vivace 快速に、きわめて快活に(8分の6拍子)
II. Allegretto scherzando 少々早めに、若干おどけた風に(4分の2拍子)
III. Adagio (attaca) -- ゆっくりと(4分の4拍子、間を空けずに次の楽章へ)
IV. Molto Allegro e vivace 非常に早く、そして快活に(4分の4拍子)

2013年4月 8日 (月)

ルソー〝エミール〟での「移動ド教育」の主張

 フランスの啓蒙思想家、ジャン=ジャック・ルソー著、〝エミール〟(岩波文庫、今野一雄訳)を繙いていたところ、たまたま、音楽教育に関する一節を見つけ驚愕した。この一節は、以前僕が書いた記事「失われた移動ド 」と同じ主張である。ルソーのエミールと言えば、250年ばかり前に書かれた教育書であり、ルソーの慧眼は論を待たないにしても、フランス音楽教育が250年前にやった失敗を、いま日本が繰り返しているということだ。極端に言えば、日本の音楽教育は、ヨーロッパに250年の遅れをとっているということだろうか。

 その部分を、まるごと抜粋させていただく(上記文庫上巻第二編、254pより)。ルソーがどれだけ言を極めて、固定ド唱法を批判しているかがよくわかる。

”音をよく示すには発音してそれをはっきりさせる。そこからある種の綴字で音階を唱える習慣が生じた。度数を区別するには、それらの度数とそのきまったさまざまの関係とに名称を与える必要がある。そこから音程の名称、そしてまた、アルファベット文字による名称が生じ、これによって鍵盤の鍵と音階の音を示す。CとAは一定の変わらない音を示し、つねに同じ鍵によって音を出す。ut(注:日本で言うド)とlaはそれとちがう。utはつねに長旋法の主音か短旋法の第三音である。laはつねに短旋法の主音か長旋法の第六音である。こうして、文字はわたしたちの音楽組織の中の釣り合いの不変の関係をあらわし、綴字は違う調における同じような釣り合いの対応する関係をあらわす。文字は鍵盤の鍵を、綴字は旋法の度数を示す。フランスの音楽家はこの区別を妙なぐあいに混乱させてしまった。かれらは綴字の意味と文字の意味を混同してしまった。そして鍵の記号を無用に二重化して、調の和音を表す記号を残しておかなかった。そこで、かれらにとってutとCはいつも同じことになる。そんなことはないし、ありうるはずもない。そうなればCはなんの役に立つのか。だから、かれらの音階唱法は極度にむずかしいものとなり、しかもなんの役にもたたず、精神に明確な観念をあたえることにならない。この方法によっては、たとえばutとmiという二つの綴字は、長、短、増、減三度を同時に意味することになる。世界で音楽についてもっともりっぱな書物が書かれている国が、なんというふしぎなめぐりあわせで、音楽がこのうえなくむずかしい方法で学ばれている国にほかならない、ということになったのか。(中略)フランス人が自然の音階唱法と呼んでいるものほど奇妙なものはない。それは事物に即した観念をしりぞけて無縁の観念でおきかえるのだが、これは人を迷わせるだけだ。旋法が転置されているとき、転置によって音階を唱えることほど自然なことはない。”

2012年12月13日 (木)

失われた移動ド

チェロにせよ、合唱にせよ指導をしていて感じる事なんですが、最近移動ドを理解する、そしてそれで歌える人がいなくなってしまいました。いなくなったというのはちょっと極端かもしれませんが、移動ドで歌えれば固定ドで歌えますが、逆は難しいのです。何十年かの間、多分学校で移動ドをしてこなかったため、そういう人に合わせているうちに、出来る人もしなくなっちゃった、という事だと思うのです。

これは絶対音感教育の過熱期と時期を一にしているように見えますが、偶然ではないでしょう。だいたい、今の20台から40台半ばのあたりにその中心があるらしい。正にそういう時期に一致します。絶対音感を持つ人が一様に移動ドでは歌えない、理解できない、それどころか気持ち悪いとさえ言うので、そりゃよっぽどの何か悪い刷り込みでもされたのかなぁ、洗脳?とさえ思ってしまいます。

それは、絶対音感のない大部分の人も同じで、音楽教育現場の混乱をかいま見る事が出来ます。僕より上の世代では、普通の小学校で移動ドをやっていた事は明確に覚えていて思い出せば出来るのですが、僕の後の世代では、音楽の専門教育をうけていてすら(あるいは、受けているからこそ)移動ドをやっていません。

小中学校の学習指導要領で「適宜、移動ド唱法を用いること」となっているらしいんですが、それが、時代の流れなのか、指導力不足なのか、いわゆる「ゆとりの弊害」なのか、なにか確信的な陰謀なのか知りませんが、ほぼ全くと言っていいほど行われなくなった、と言っていいでしょう。どんな楽典の参考書のはじめの方にも、音名と階名が載せられていますが、音楽の先生はこれをどうやって解説するのでしょうか。きっとスルーなんですね。

移動ドをやらない事によって読譜力が落ちている、というのはよく言われる事ですし、実際にそう思います。だいたい、クラシック、というかアカデミックな音楽教育においても、ソルフェージュを固定ドでやっておきながら、和声学というより高い概念を学ぶときに、ようやく完全な移動ドに移行する、それこそ学ぶ人にとっては大混乱ではないでしょうか。

ひとつの言い訳として、ドレミはイタリア語(ラテン語)では音名なのでイタリア語圏に行ったら混乱を来すみたいな。なんじゃそりゃ、とは思うものの、決定的な反証が欲しかったところ、最近、若い気鋭の作曲家佐藤賢太郎氏の研究成果を発見して、したりと思いました。

http://www.wisemanproject.com

この人は日本では一般の大学を出て、アメリカの大学で音楽を学んだ人なんですね。自身の学んだ成果をもとに、ユニークなメソッドを考えられています。移動ドのメソッドだけでなくて、合唱における母音の発声、発音についてもまとめていて、非常に高い関心をもって読みました。

やっぱりこういう若い人が、音楽教育を変えて行くっていうのがいいですね。アカデミックな権威主義に負ける事なくがんばってほしいと思います。って人ごとのように思うだけでなくて僕もちょっと見習ってみます。

にしても、まだまだ始まったばかり。依然として、学校の新曲視唱の試験は固定ドですからね。

2012年12月11日 (火)

純正律?

僕は弦楽器奏者ですし、合唱の指導もしています。だから、という訳ではないですが、ハーモニーについて少し深く関わったことのある人ならば、多かれ少なかれ、純正律、すなわち純正音程の和声について考えることがあるでしょう。

12音で音楽を作るにおいて純正な5度圏が破綻を来すこと、また、音楽はハーモニーだけではなく、メロディーも重要であること、は、楽理として昔からわかっていたことですから、現代のピアノ調律が平均律だからといって、それを理由に音感が平均律に毒されているように考えるのは、どうかと思っています。

そもそも、聴覚は純正であるものの方を聞き分ける方が簡単で、わざとずらせる方が難しい訳です。チェロのチューニングが(チューナーを使わずに)きちんとできるようになるために特別な才能がいる訳でありません。はっきり言って多少訓練をすれば誰でもできるようになります。そして普通は純正の完全5度でチューニングしてしまうものです。

してしまう、と言ったのは、ピアノのAでチューニングすると、純正の完全5度は平均律より広いので、最果てのCに行ったときにピアノのCより低くなりすぎるから、ピアノとアンサンブルするときは調整する必要があるとか(場合によってはピアノ以外でも)言うことは現場を知っている人では当たり前の事ですし。

5度も3度も、濁らないでやろう、とすると、純正になって「しまう」ものです。あえて純正はこうなんだ、と言うことをする必要がある場合がさほどあるとは思えません。それは指導者の問題、とも言えるでしょう。

ところが、純正な3度(特に長3度)と完全5度との共存について考えると、いろいろな問題が出てきます。誤解を恐れずに言えば、彼らの蜜月は、ドミソの3和音で終わりなのですから。そしてそれは、和声とメロディーの共存と言い換えることが出来るのです。

3度音程が純正である事と、メロディーラインが美しいこととは、時に全く相容れない事があります。過去の実験で、バイオリニストがメロディーを弾く時に、どんな音律で弾いているのか、を調べたところ、ほぼピタゴラス音律に近かったのだそうです(たしか「音楽の物理」という古い本に載っていたという記憶がありますが)。ところが長音階で言えば、ピタゴラス音律の第3音、そして導音の第7音(ドミナントの第3音)は高い。高くないとメロディーが美しくないのです。主音と第3音を一度に弾いたら確実にうなります。

だから、自分でアコードを弾くときも、ほかの楽器とあわせるときも、かならず調整が必要になります。それが演奏家の職人芸ともなるのですが。ちなみに、内声の専門家、たとえば職業的第二ヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者など、このような能力に特に長けていないといけない、と言えるでしょう。もちろん、合唱でもまったく同じ事が言えます。

ピタゴラス音律とはすなわち純正な5度音程の積み重ねなのであり、ここで一つの結論めいたことを言うと、ハーモニーとメロディーのせめぎ合いは、純正な3度と5度とのせめぎ合いであると。

奇しくも、鍵盤楽器の調律の歴史は、いかに5度音程を犠牲にして3度音程を純正に近づけるかでありました。これこそが、5度圏12音音階の本質であるのだと、感じています。

これらの究極の妥協の結果として、12音平均律があるのは明らかです。いいか悪いかはわかりませんが、そうであっても、人間の生理学的進化の結果は純正で変わらないと信じると、まだまだ考えないといけないことが多いような。

なんかまた思いつきそうなのですが、今はここまでにしておきます。

2012年11月 9日 (金)

20世紀ロシア3大チェロソナタリサイタル楽曲解説

 (本記事は2012年11月11日リサイタルのために書かれた解説記事です)

20世紀ロシア3大チェロソナタリサイタル 楽曲解説

 

本日のリサイタルにおこしのみなさん、ご来場ありがとうございます。

 

 タイトルは「20世紀ロシア3大チェロソナタ」、まさに20世紀ロシアにて書かれた3つのチェロソナタのリサイタルです。

 

 ラフマニノフ、プロコフィエフ、ショスタコーヴィッチ、この3人によって書かれたソナタをこういうくくりにしたのはまったく私の独断です。時代でいえば、ラフマニノフは確かに20世紀に長く生きていますが、どちらかといえば19世紀的な作曲家です。たまたまチェロソナタは1901年に制作され、ぎりぎり20世紀にかかっていました。プロコフィエフとショスタコーヴィッチはどちらもソ連が生んだ、言い方を変えれば20世紀の米ソ冷戦が生んだ巨星と言えるでしょう。

 

 しかし、一番時代が下ったプロコフィエフのソナタでも1949年、すなわち20世紀が半ばを超えていません。このころよりアメリカで商業音楽の萌芽がみられる時代であり、これ以降、世界的な工業産業文明の進歩とともに、クラシック音楽での商業的エポックは、以前に比べ得られにくくなってきた時代であるとも言えるでしょう。「ソナタ」などという形式自体、とうの昔にすたれたかに見えたものが、鉄のカーテンという壮大な幻影を繭として、良かれ悪しかれ育っていたのには、おおいなる皮肉を感じます。

 

 さて歴史学、社会学的にこれらの曲を語るには、選曲にはもちろんそれなりの理由、動機はあるとはいえ、リサイタルを控えた私には荷が重すぎます。ここでは、この3曲が今やチェロソナタ史上、ロシアの巨匠による不動の名曲であり、20世紀という「時間」に偶然、ないしは必然的に生み出されたのだということを述べるにとどめ、演奏者の立場から曲を語ろうと思います。

 

 プロコフィエフ(1891-1953)チェロ・ソナタ ハ長調 作品119(1949年)

 

 プログラムの曲順は、考慮の末、制作年代とは逆順となりました。

プロコフィエフは、ショスタコーヴィッチとは同時代人であり、双方に強い交流があったわけではないものの、お互い常に意識のうちにあったことは間違いないでしょう。曲の類似性はほとんどないばかりでなく、手法はお互い反発し合っているのではないかと思わせるほどに対照的です。

 チェロソナタに関しては、プロコフィエフが、すでに世界的に名の知られたロストロポーヴィッチを視野に入れて書いているのに対して、ショスタコーヴィッチのものは若い時分の作品です。

形式的にも、ソナタにおける伝統的な4楽章形式ではなく、緩徐楽章のない3楽章形式です。

 

 第1楽章 アンダンテ・グラーヴェ;モデラート・アニマート;アレグロ・モデラート

 

 アンダンテ・グラーヴェはチェロの重厚な低音のソロで、ゆったりとした3拍子で主題が始まります。あたかも巨大な生物がのっしのっしと歩いているかのようです。のっしのっし、というモチーフは、都市の建造物をなぎ倒しながら巨大化するかと思いきや、昇華され、甘い美しいメロディーに変化します。

 

 古典的なソナタでは、こうしたゆっくりとした導入の後、アレグロの軽快な部分が続いたりします。ところがこの曲は、軽快なアレグロ(モデラート・アニマート)が始まったかと思うや否や、すぐに、最初の重い3拍子に引き戻され、それが最後まで繰り返されます。中間部ではチェロとピアノがゆったりと語りあっていますが、そこでも最初に提示された主題が展開されていきます。

 

 一見、気まぐれに見えるこの楽章は、変則的なソナタ形式とみなすことができます。変奏された第一主題による再現部を聴き取ることができ、ついには最後にもう一度アレグロを試みます。最後はアレグロへのカタルシスなのか、コーダに向かって次第に音が暴れだし、チェロが狂騒的にアルペジオを奏で、巨大な生物は、力尽きて昇天するかのように静かに終焉します。

 

 第2楽章 モデラート;アンダンテ・ドルチェ

 

 おどけた調子の4拍子、道化師の踊りでしょう。スケルツォの3部形式です。中間部のアンダンテ・ドルチェは、大げさなイタリアの男性オペラ歌手のようでもあります。全体明るく、さらに諧謔的な、若干皮肉っぽい表現ではありますが、ちょっとホッとするところでしょう。

最後のチェロのハーモニクスが全体の雰囲気を象徴しています。

 

 第3楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ;アンダンティーノ

 

 2分の2拍子、軽快なピアノの離散したアルペジオに乗った、チェロが流れるようなメロディー。チェロソナタといえばこういうもののことを言うのではないでしょうか。ところがその第一主題は、軍隊的な第二主題にいつの間にか変貌するのです。

この曲も第2楽章と同じように中間部分にゆったりとしたメロディーを持つ部分が長くあります。プロコフィエフは、緩徐楽章を書かなかった代わりに、全体に抒情的な部分をちりばめたかのようです。その中間部は、チェロのメロディーにはじまり、ピアノに移ったメロディーをチェロのトレモロが支えて終わり、そして再現部へ。

 再現部は、フェイドアウトしながら、壮大なコーダへと接続されていきます。そこに登場するのは、第一楽章冒頭の主題の変奏です。悪く言えばとってつけたようなコーダですが、破壊的とも見えるこのコーダは、そうであるだけに、一層壮大に聴こえる二面性を持っているように感じます。

 

 ショスタコーヴィッチ(1906-1975)チェロ・ソナタ ニ短調 作品40(1934年)

 

 ショスタコーヴィッチはソ連の作曲家ですが、ジャズ組曲、というオーケストラ曲を作っているのをご存知でしょうか。聴いてみると、ジャズ曲というよりは、アメリカのビッグバンド風の曲に慣れている我々にとっては、ポップスオーケストラのための曲、のような雰囲気です。しかし、たしかにポップであることは間違いなく、このチェロソナタと同時期に書かれた、若いショスタコーヴィッチが才能を開花させつつ、懐を大きく広げている様子を知ることができます。

 

 第1楽章 アレグロ・ノン・トロッポ

 

 ジャズ組曲とは対照的に、チェロソナタはメロウに語り始められます。その流麗でありながら強烈な個性を放つ筆致は、すでにショスタコーヴィッチリズムも随所に登場し、独自のスタイルを確固たるものにしつつあるショスタコーヴィッチの力作であることは間違いありません。後年円熟期に、プロコフィエフなど数あるソ連の作曲家と同じくロストロポービッチのために書かれたチェロコンチェルトに比べると、みずみずしく、初々しいとまでも感じます。

 

 「ちょっとした悩み」の第一主題、「ひと時の安らぎ」の第二主題。これらが多少の混乱やあやをおりなしながら、ついには安らぎとして解決されていくと思いきや、ふと消え去り、不気味なピアノの、ゆっくりとした足音とともに、ミュートされた第一主題がコーダへ向かって遅々として奏でられます。それは、絶望に打ちひしがれた死の行進であるかのようです。

 

 第2楽章 アレグロ

 

 速い3拍子の、スケルツォです。転げ落ちるかのようなパッセージの繰り返し、踊り狂う妖精、それを追いかける連続した3連符のドタバタ、それらが嵐のように暴れまわり、あっという間に通り過ぎていきます。この曲はその痛快さから単独のピースとして演奏されることも多くあります。

 

 第3楽章 ラルゴ

 

 うたたかの狂宴は終わり、第一楽章コーダで現れた陰鬱が再び現れるかのようです。長い憂鬱、嘆き、悲しみ、これらは最後まで解決されることなくこのまま人の無力を感じながら終わっていくのでしょうか。

 

 第4楽章 アレグロ

 酔っぱらいの彷徨。

 人は、弱いものです。しかしその弱さゆえに、逃げることを知っています。この憂鬱の不安から逃れるために、昨日も明日も忘れ、酒を飲むことにしたのです。はしご酒でしたたかに酔って千鳥足、そして陽気に踊りまわり、暴れまくり、最後には、ギターを片手にろうろうと歌い、おやおや、酔いが回ってこけて倒れてしまうのです。

 

 

 ラフマニノフ(1873-1943)チェロ・ソナタ ト短調 作品19(1901年)

 

 ときにピアニズムは、鬼才を生みます。リストしかり、ショパンしかり。そしてこのラフマニノフも。その演奏人口の多さから、文字通り鬼とも、神とも、たたえ恐れられるのでしょう。かつてショパンも、ピアノ以外の楽器のソナタとして、唯一チェロを選んでいます。

 ラフマニノフには、「ヴァイオリンソナタは書かないのか?」と質問する人がいたらしく、本人は「私はチェロソナタを書いたから、ヴァイオリンはもはや必要ない」などと答えたとか。ショパンも同じような風情なのでしょうか。

 いずれにしても、どちらのチェロソナタもピアノは、ピアノ曲以上に難曲であり大きな役割を担います。そしてラフマニノフのこの曲は、長いスランプを克服したのちの、あのピアノ協奏曲第2番の成功の直後に書かれているということも、付け加えておきましょう。

 

 第1楽章 レント;アレグロ・モデラート;モデラート

 

 確かに、チェロは、長い優雅な音列をメロディッシュに奏でる間、ピアノは細かい演奏困難なパッセージを弾くか、そうでなければ常時10個(以上)の音を厚くかつ甘く鳴らしてゆく、という場面が多く出てきます。しかし、これはかつて初期古典以前にあったチェロバッソ的なピアノソナタではなく、すなわち、ピアノを引き立てるチェロでは決してなく、テクニカルなピアニズムがチェロを非常に魅力的に仕立てている、と言えるでしょう。

 厳格なソナタ形式をとる第一楽章は、全編雲に覆われた憂鬱なロシアの大地を思わせます。ゆっくりとした導入、そして colla parteの指定から第一主題。さらに陰鬱な第二主題から天へ上る持続音、チェロに歌え、歌えとラフマニノフのピアニズムが呼びかけます。

 

 第2楽章 アレグロ・スケルツァンド

 

 8分の12拍子のスケルツォ。1小節八分音符12個の3連、または6連の断続音の連続。遠くで撃ち合う機関銃のようにも聞こえます。うたかた美しく歌い忘れようとしますが、断続音は消えません。

 そうこうしているうちにトリオ。それは休戦のひと時なのでしょうか。平和な2分音符の連続、レガート。歌は高く高く奏でられ、平和が訪れたと思った瞬間、冒頭のメロディーに戻ります。「タタタタタタタタ」「タタタタン」。

 不安な余韻を残し、消えるように終わります。

 

 第3楽章 アンダンテ

 

 美しい緩徐楽章で、ピースとして独立に演奏されることもよくある楽章です。変ホ長調の曲なのですが、変則的な和声で始まり、ラフマニノフらしい不安感を醸し出しています。

 しかしこの曲のピアニズムは、チェロに、単に朗々と歌い上げることだけでなく、大地を延々轟かす力強を求めるのです。

 

 第4楽章 アレグロ・モッソ;モデラート;ヴィヴァーチェ

 

 一転、トニックからファンファーレ的序奏、凱旋風の第一主題が現れます。そして堂々と歌い上げる第二主題。これは戦いの勝利であるのか、それとも戦い行く決意であるのかわかりません。しかし、1、2楽章の不安と憂鬱とは打って変わった何ものかがここに登場します。

 全楽章をとおして、厳格なソナタの形式を踏まえ、最後もそれを踏襲しています。

 戦いの回想であるかのような、展開部。

 再現後、天への祈りのような、メノモッソ、そして、第一主題終了部を模倣した雄大なコーダへと続きます。

 

(齊藤栄一)

2012年7月 5日 (木)

ヴィヴラートとは何か

 室内楽をしていると、クラリネットと共演することが多い。弦と合わせて美しいアンサンブルを奏でることができるクラリネット奏者やピアニストは、相当な腕前である。

 ピアノはもちろん、クラリネットはほとんどヴィヴラートがかからない。その単純さゆえに名手の演奏にはこの世のものとは思えない美しさがある。

 同じ管楽器でも、オーボエは常時ヴィヴラートがかかっているように聞こえる。また、クラリネットや金管楽器であっても、ジャズやポップス系の音楽では、クラシックより頻繁にヴィヴラートがかかっている。

 これら、シチュエーションや楽器によって、ヴィヴラートの違いが出るのは何故なのか。また、どういう、あるいはどんな時のヴィヴラートが美しく、またそうではないのか。これらはわれわれチェリストを含めた、演奏者の永遠の課題だ。

 ヴィヴラートは、楽器演奏だけに現れるのではなく、むしろこちらの方が原点だと思うのだが、声楽においては、ヴィヴラートはなくてはならないようなものに見える。「見える」と表現したのは、なくてはならないものが、実は不要なものだという風にも言えるようだからだ。

 オペラ歌唱を茶化した演奏など、たとえばテレビのバラエティーやコマーシャルなどで、ピッチが半音近く変化するヴィヴラートをかけていることがある。これは、そういう演奏がステロタイプで笑いを誘うから、なのだろう。名演奏と言われるオペラを聴いたことがあれば分かるはずだが、クラシックの正統な演奏においてそんなにピッチが変化するヴィヴラートがかけられていることはない。そもそもピッチが変化すると音程感が薄くなり、たとえばモーツァルトの音楽(それがワグナーであっても)が台無しになってしまう。

 さて、そういった美しい正統な歌手の演奏は、声楽の専門家に言わせると「ヴィヴラートがかかっていない、良い演奏だ」と表現することがある。これはどういったことなのか。チェロの通常の演奏にヴィヴラートがつきもので、それと似たような現象があるにもかかわらず、これはヴィヴラートではないというのだ。

 お互いちょっとしたレトリックの違いはあるかもしれない。人に技術を教えるとき、感覚を表現するのに、特に音楽の専門家以外に物事をわかりやすくするために、ちょっとしたレトリックを使うことはある。しかし、ここには単なるレトリックの違いを超えた、重要で、本質的なものがあるようにも感ずるのだ。

 それが「可能」であれば、ヴィヴラートのかかっていない比較的平滑なエンベロープを持つ音を出すことは、美しさにつながる。それは楽器の構造に大きく起因している。木管楽器ではクラリネット、また多くの金管楽器などは、エンベロープに対して安定した構造になっているのでそれが「可能」なのだ。

 一方それが不安定なオーボエやフルートなどは、平滑なエンベロープを持つ音を出すことが難しい。これらの管楽器はエンベロープを維持することだけでなく、ピッチを維持することも難しい。こういった楽器のヴィヴラートは、一つの目的として、もともと楽器の持つ不安定さを逆に安定させるためのもの、と言えないだろうか。


 歌唱もそうなのであろうことは想像に難くない。歌唱は発声において、呼吸法を学び、腹筋や横隔膜の意識を学び、そのうえでしっかりとした体の支えで歌う。この体の支えが、管楽器の共鳴体であり、声帯がマウスピースとなぞられることが可能だろう。それらが不安定であれば、音程まで不安定な大きなヴィヴラートがかかった不快な声となり、安定していればヴィヴラートの少ない安定した音が出る。声楽家にとっては、安定した発声のできる体作りは欠かせないのだ。

 であれば弦楽器もそうだと言えるだろう。管楽器と同じように弦楽器はその体自体は変化させることはない。というより、体自体を変化させることができるのは声楽だけである。変化させる部分は、発声体であるボウイングと、ピストンやキィに相当する左手のフィンガリングである。

 話を進めるにおいてここで整理しておかなくてはならないことがある。すなわち、ヴィヴラートとは、「かける」ものなのか「かかる」ものなのか、ということである。筆者の感じる今の現実は、これらは二律背反するものではなくどちらもある。

 ただ、ヴィヴラートのという項目は前者として語られることが多く、後者として語られることはほとんどないように思う。ところが、良い演奏、これはなにもうがったことを考える必要はなく、巷にCDなどとして流通する一流の名手などの演奏でよいが、そこへのアプローチを考えたとき、後者の重要性のほうがはるかに大きいように思う。上記のこれまでの議論は、完全に後者のアプローチである。

 また、後者のものであるにもかかわらず、前者として語られることも多い。これは無理もないことであり、次へ論をするめるにあたっても、これらを混同せずに語ることができるかは筆者にもあまり自信はない。やはりヴィヴラートもほかのテクニックと同じように、それを作り出すにおいては、演奏者の主観、そして感覚的なものであるから、ある程度のレトリックが生ずるのはやむを得ないことかもしれない。

 さてエスキューズはこのくらいにして本題に戻そう。

 弦楽器のヴィヴラートといったが、少し責任範囲を狭めてチェロのヴィヴラートに話を絞ろう。ヴァイオリニストはこの世にごまんといて、彼らのことは彼ら自身に考えてもらいたい。しかし、もしこの話が多少なりともヒントになれば幸いだ。

 チェロの演奏において、常時動的な状態にあるのは、ボウイングとフィンガリングである。フィンガリング、というと指使いのみに思われそうだが、ポジショニング、シフティングといった左手及び左腕全般のテクニックを、ここではフィンガリングと呼ぶことにする。指をどう運ぶかが左手のテクニックである、と考えれば、左腕全般の動きも、それは含むことになると考える。

 ヴィヴラートは、フィンガリングのテクニックである、と思われている。それは否定しえないが、ヴィヴラートが音の安定性を担保しているという、つまり「かかる」ものだと考えるとそう単純なものではない。

 実はノンヴィヴラート奏法、といったものがある。常に解放弦を弾いているような弾き方をするのである。このように、例えばクラリネットのように、平滑なエンベロープに近い形で演奏することは可能である。古楽を演奏するようなシチュエーションで使用することが多い。

 モダンの楽器、つまりいま普通に手に入る楽器を使用してノンヴィヴラートで弾き続けようとすると、かなりストレスが溜まる。楽器の初心者がヴィヴラートをかけることが出来ないのは、ほぼ左手に力が入りすぎているからだが、そういった状態を力を入れずにわざと作り出さなければならないのは、実はボウイングも含めてきわめて大変である。

 大変ではあってもそれが成功すれば確かにいい音が出る。解放弦を良い音で弾いているのと同じ理屈だ。それが可能なのは、バロックチェロといった古楽用にチューニングされた楽器を使用し、フィンガリングかかるストレスが少なく、巧みなボウイングをもって小さいながらも豊かな響きを作れる状態において有効なのだ。

 モダンの楽器はそういった演奏には向いていない。スチール弦が張れるように楽器は改良されており、そのためフィンガリングには比較的大きなストレスがかかり、ボウイングは豊かな音量を求められる。モダンの楽器で常時それを弾くのは、例えばオーボエをノンヴィヴラートで弾く、に近い困難さがあるように思える。

 すなわち、音を安定させるのに困難なストレスが、フィンガリング中に常時存在するということなのだ。しかしそれでも安定しているに越したことはなく、むしろ安定したピッチで、ピッチの揺れることのない左手の強さ、しなやかさ、脱力、これらの矛盾を止揚したところにあるフィンガリングの技術を求められる。これらは、安定した発声ができる体つくりをする声楽家と同じである。

 そしてそのうえでなおかつ存在する、もともとミニマルに持っている演奏者および楽器の揺らぎがヴィヴラートとして表現されるのだと、いったん考えてみたい。これが「かかる」ヴィヴラートである。この文章を注意深く読んでいる方はお分かりのように、この状態は、一部の声楽家に言わせるとヴィヴラートが「かかっていない」、良い状態と言えるのだ。

 それでもなおかつ、名手の演奏を聴いて、そんな消極的なヴィヴラートしかかかっていないようには思えないかもしれない。たしかに、ここに、マイスキー、ヨーヨーマ、カザルス、シュタルケル、藤原真理、長谷川陽子などのCDがあるけれども、どれも個性的で美しいヴィヴラートがかかっているように聞こえる。しかし、実はこれらは、基本を忠実に追求したうえでの、頂点だけに存在するミニマルな揺らぎなのだ。そしてだからこそ、そこに大きな音の差が表れると言えるだろう。

 ヴィヴラートが大きくかかっているように聞こえる理由はもう一つある。それは優れたボウイングだ。耳だけで彼らの演奏を真似しようとして、左手を大きくくねらせて振動させ、音程までも変化させる悪質で聞くに堪えないヴィヴラートをかけてしまうことはないだろうか?しかしそんなことをついついしてしまうほどに、名手のヴィヴラートは大きく美しい。

 ヴィヴラートをボウイングでかけている、というわけではない。あるいはそう表現する人もいるけれでも、右手で音のエンベロープをゆらゆら動かしているわけではない。そうではなく、正しく美しいまっすぐなボウイングは、勢い弦の振動を大きくする。弦の振動の大きさは、デシベル的に言えば大きな音と言えるかもしれないが、実はディナーミクがピアニシモであっても、遠くに響かせるためには弦を十分振動させなければならない。いわんや、フォルテシモにおいておや、である。

 そしてそのよく響いた弦の振動が、ミニマルな揺らぎを大きくする、ということだ。弦が振動すれば、ピッチの不安定さが増す。それらを安定した状態とするためにヴィヴラートがより増幅されるのである。こういうことにおいても、チェロにおいてどれだけボウイングが重要かを知ることが出来る。このボウイングによるヴィヴラートの増幅は、C線のような低弦により強く感じることが出来る。低い弦を響かせるためには、より大きな振幅が必要であるからだ。

 すなわち「かかる」ヴィヴラートとは、安定してよく響くチェロの音を出すためのミニマルな揺らぎであり、しかしまた、そこに演奏者の個性が大きく現れるのである。

 最後に、「かける」ヴィヴラートの話をすこししておこう。チェロにおいては「かかる」ヴィヴラートを超えて自分で「かけよう」とすると、音程の変化する聴きずらいヴィヴラートとなる。これはどんなクラシック音楽においても同じだし、多くチェロが使われるあらゆる音楽において同じである。

 実は、チェロ演奏において、おそらくは「かける」ヴィヴラートが多すぎるという批判を言い出したのは、フルニエなのだと藤原真理さんに教えられた。なにか古くからある概念のように書いてはみたが、余計なヴィヴラートが不快なものなのだという美的観念は、比較的近代的なものなのかもしれない。

 「かける」ヴィヴラートがジャズやポップスにおいて多いと書いたが、それは、そうすることによってそれらの音楽が美しくなるからにほかならない。「かける」ヴィヴラートがピッチを変えることにあるのであれば、そこに正当な理由があるのである。

 よく、クラシックの先生が「演歌みたいなヴィヴラートをかけるな」と言ってしまうが、それは演歌歌手に失礼な話である。要するに、演歌を聴かないということなのだろうけれども。

 演歌歌手であっても、うまい歌手はそんなヴィヴラートを頻繁にかけたりしない。オペラ歌手と同じである。演歌に特徴的なのは、絶妙なタイミングで入るコブシやシャクリといった、クラシックでいえばロマンチックなポルタメントに相当するもので、これらはもともとピッチを操る高等な歌唱法でヴィヴラートとは違うのだが、これらの特徴を若干はき違えているのではないか。

 確かにピッチを変化させるヴィヴラートのようなものをかける場合がある。もしそれを常時かけているといたら、単に練習不足で支えのなくなった喉なのだろうが、これはきっちりとた意味をもつところにあるはずだ。うまい演歌歌手の良いタイミングで「かける」ヴィヴラートは、さすがだと思うことも多い。

 これはなんなのだろうか。実はオペラアリアでも似たようなことがある、しかし通常それはヴィヴラートとは呼ばれず、トリルと呼ばれている。アリアでのトリルは、演歌でいうヴィヴラートに似ているのだ。すなわちどちらも、音楽上必要な、あるいは必要を超えて美しさを添える装飾なのだ。

 こうった装飾は演歌に限らない。注意深くジャズのスタンダードナンバーを聴いていれば、ソロが効果的なヴィヴラートをかけるところは総じて装飾的である。クラシックよりも自ら装飾の幅の広いジャズやポップス、演歌などには、「かける」ヴィヴラートを効果的に使用できる範囲もまた広いと言えるだろう。

 もしチェロでそれをするとしてもやはり、「かける」ヴィヴラートは装飾、すなわちアドリブである。良い響き、良い音を出す以上に、アドリブがそこに必要であろうか。クラシカルな場面では特に、否と言える。もしポップな場面で、チェロにそういう要望はあるとすれば、どうするか?

 音楽は変化し、文化も変化する。ここで明確な結論を出す必要はないだろう。

2011年2月 7日 (月)

脱・万年銀賞

レディースアンサンブルを引き連れ、アンコンに出場してきました。
結果はほろにがの銀賞。

万年銀賞から、脱出するぞ。

打倒●●●●●!

仮想敵を想定する前に、もっとしっかり勉強だ

第18回岡山県ヴォーカルサンブルコンテスト

2010年9月26日 (日)

ジョギングよりソナタ

ライブが終わりました。3大Bのソナタを演奏するライブ。企画をいただいたKさんはじめスタッフのみなさん、onsayaのスタッフの方々、そして共演してくださったアーチストの面々、皆に感謝します。何よりご来場してくださった方々ありがとうございました。満員御礼立ち見になってしまったかたすみませんでした。それでも最後まで聴いてくださいました。

今朝、何日かぶりにジョギングをしました。だいたい5キロくらい走ります。そこそこの運動です。涼しくなったので、猛暑だったほんの1,2週間前よりは走れるでしょう。メタボ対策ってこともありますけど、毎日ジョギングをしても、そうそう体重は減りません。

ところが、昨日は、モノを食べなかったわけでもないのに、2キロ近く体重が落ちました。いやぁ、毎日こういう本番があったら、大変なダイエットになるかも。

onsayaは、生の音がなかなかよく、へたなホールよりも気持ちよく演奏できました。お客さんとはほんの1mも離れてない距離。サロン風でいいかな。でも、あの店内に60を越えるお客さんって、ちょっとすごかったです。

またやりますね。

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