日記・コラム・つぶやき

2018年12月 3日 (月)

復活のチェロ

 左手が動かなくなってから、人前で演奏する意味を考えて来ました。倒れた当時、入院していた頃は、破壊の後に生まれる新しい芸術などという、半ばやけくそ、半ば強がりなことを夢想し、たまにリハビリで言語聴覚士に語ってみたりしたこともありましたが、退院し、社会復帰をするにつれ、現実感を取り戻すとともに、結局残るのは、動かないという事実のみ。

 ただ、うまく弾けなくとも、その左手でリハビリがてらチェロを弾くこと自体は、消耗は激しいものの、苦痛ではなかったのが救いといえば救いだったかもしれません。その後遺症が癒えていくことを強く願っていたわけではありません。というのも、3年、4年と経つうち、動きが良くなる様子は、思うほど改善していかないことが段々わかって来たからです。

 なので、それを、願いではなく、課題と考えることにしました。課題なら、一生かけて解決しようという気持ちが、生きがいに出来るから。

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2018年6月 6日 (水)

昨日の藤井聡太七段の勝利を表現する

 昨日(2018年6月5日)行われた藤井聡太七段対石田直裕五段の第31期竜王戦5組ランキング戦決勝戦、藤井くんが勝ったことは今更ニュースにならないかもしれませんが、プロを含め将棋を知っている人の間では、屋敷九段の「歴史に残る一戦」の表現の通り、衝撃の勝利なのでした。
しかし、勝負飯には興味があるが、将棋をほとんど知らない善意の将棋ファン(藤井くんのおかげで、そういうファンが増えているようです)に正面からその内容を解説しても、ほぼ理解できないでしょう。だからどれだけすごくても、情報バラエティ番組ではニュースになりません。
 ここで戯れに、標記の試みを、そういうファン向けにしてみましょう。

 『それは、どれだけ凄いかと言うと、よくデューク東郷ことゴルゴ13が、「大変な横風と多くの障害物の中で、何キロもの先の標的をミリ単位の狂いなく撃ち抜く」というような、リアルじゃフツーできねーだろう、なんてことをマンガの中でやってしまいますが、それをリアルでやってしまったようなもの。』

これで、どうでしょう?

2018年3月26日 (月)

ルソー 「エミール」抜粋

Mais, premièrement, au lieu de les lire on peut les ouïr, et un chant se rend à l’oreille encore plus fidèlement qu’à l’œil. De plus, pour bien savoir la musique, il ne suffit pas de la rendre, il la faut composer, et l’un doit s’apprendre avec l’autre, sans quoi l’on ne la sait jamais bien. Exercez votre petit musicien d’abord à faire des phrases bien régulières, bien cadencées ; ensuite à les lier entre elles par une modulation très simple, enfin à marquer leurs différents rapports par une ponctuation correcte ; ce qui se fait par le bon choix des cadences et des repos. Surtout jamais de chant bizarre, jamais de pathétique ni d’expression. Une mélodie toujours chantante et simple, toujours dérivante des cordes essentielles du ton, et toujours indiquant tellement la basse qu’il la sente et l’accompagne sans peine ; car, pour se former la voix et l’oreille, il ne doit jamais chanter qu’au clavecin.

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Pour mieux marquer les sons, on les articule en les prononçant ; de là l’usage de solfier avec certaines syllabes. Pour distinguer les degrés, il faut donner des noms et à ces degrés et à leurs différents termes fixes ; de là les noms des intervalles, et aussi des lettres de l’alphabet dont on marque les touches du clavier et les notes de la gamme. C et A désignent des sons fixes invariables, toujours rendus par les mêmes touches. Ut et la sont autre chose. Ut est constamment la tonique d’un mode majeur, ou la médiante d’un mode mineur. La est constamment la tonique d’un mode mineur, ou la sixième note d’un mode majeur. Ainsi les lettres marquent les termes immuables des rapports de notre système musical, et les syllabes marquent les termes homologues des rapports semblables en divers tons. Les lettres indiquent les touches du clavier, et les syllabes les degrés du mode. Les musiciens français ont étrangement brouillé ces distinctions ; ils ont confondu le sens des syllabes avec le sens des lettres ; et, doublant inutilement les signes des touches, ils n’en ont point laissé pour exprimer les cordes des tons ; en sorte que pour eux ut et C sont toujours la même chose ; ce qui n’est pas, et ne doit pas être, car alors de quoi servirait C ? Aussi leur manière de solfier est-elle d’une difficulté excessive sans être d’aucune utilité, sans porter aucune idée nette à l’esprit, puisque, par cette méthode, ces deux syllabes ut et mi, par exemple, peuvent également signifier une tierce majeure, mineure, superflue, ou diminuée. Par quelle étrange fatalité le pays du monde où l’on écrit les plus beaux livres sur la musique est-il précisément celui où on l’apprend le plus difficilement ?
Suivons avec notre élève une pratique plus simple et plus claire ; qu’il n’y ait pour lui que deux modes, dont les rapports soient toujours les mêmes et toujours indiqués par les mêmes syllabes. Soit qu’il chante ou qu’il joue d’un instrument, qu’il sache établir son mode sur chacun des douze tons qui peuvent lui servir de base, et que, soit qu’on module en D, en C, en G, etc., le finale soit toujours la ou ut, selon le mode. De cette manière, il vous concevra toujours ; les rapports essentiels du mode pour chanter et jouer juste seront toujours présents à son esprit, son exécution sera plus nette et son progrès plus rapide. Il n’y a rien de plus bizarre que ce que les Français appellent solfier au naturel ; c’est éloigner les idées de la chose pour en substituer d’étrangères qui ne font qu’égarer. Rien n’est plus naturel que de solfier par transposition, lorsque le mode est transposé. Mais c’en est trop sur la musique : enseignez-la comme vous voudrez, pourvu qu’elle ne soit jamais qu’un amusement.

今年の詰将棋選手権

全国民の予想通りでこんな結果。

藤井六段の優勝。

ちょっと気になったことがありまして。谷川九段が出場していたことです。広瀬八段などは常連だったように思いますが、谷川さんは出てなかったよなぁ。そしたら、こんな過去のブログ記事を見つけました。

谷川九段が言ってたこと

ほう、やっぱり。今年の、ついに出場というのは、まさに藤井六段に触発されてのことんなんじゃないかなと勝手に思いました。

ちなみにこの時谷川さんに「出ようかな」と思わせた宮田六段は、藤井くんのせいで連覇記録を破られ、今年も2位。

地味ですが、ちょっとした事件ですよ。

2017年9月 1日 (金)

将棋ブーム

将棋ブーム、だそうだ。

 中学生時代にちょっと凝っていたことがあり、ムロくんという名の好敵手もいたことから、自分としてはそうとうにのめり込んだ気がするのだけれど、さほど強くはならなかった。ムロくんの方は、僕よりは強くなったと思う。ただ、後日知ったが、興味は囲碁の方に移ったようだ。実は僕もである。どうも、囲碁将棋で比べると、囲碁人口の方が多いようだ。その後、将棋にはあまり興味を持たなくなった。

 とはいえ、ブームと言われると気になる。凝っていたころの名残で、プロ将棋の組織や仕組みにも多少知識があったので、おそらくそのへんのにわかファンよりは楽しめるのかもと思ったりもする、などというと上から目線と叱られそうだ。いまでは僕も、いわゆる、単なる「みる将」に過ぎないのだから。

 プロ棋士は、スポーツも含めたプロの勝負事の世界の中で、その希少かつ特異な天才的才能の世界の割には、必ずしも、名についても実についても恵まれてるとは言い難い。たとえば、タイトル戦の最高賞金も、億に満たない。また、先日、岡山出身の20代の若手棋士、菅井七段が、メジャータイトル「王位」を羽生三冠から奪取したが、一般的な報道は、藤井四段の連勝記録と比べると、地元の贔屓目を差し引いても、寂しい限り。野球やサッカー、相撲、テニスなどのプロ競技のニュースと比べても、その扱いの小ささは、よくわかる。

 それでも、「藤井四段のおかげ」という、ブームの直接的なきっかけを、否定的に思うわけではない。ここで、「将棋メシ」に踊るにわかファンに眉をひそめるプロパーな愛好家を気取っても、このスマホ時代の中では何も始まらない。それは、将棋界の住人たちもよくわかっているようで、ネット放送の対局の解説においては、わりと真面目に将棋メシを扱かったりしている。あるいは、解説の棋士や、聞き手の女流棋士自身も面白がっているのかもしれないような向きもあるが。

 ただ言えるのは、にわかファンであっても、将棋めしウォッチャーであっても、将棋界にとっては、非常に大事な資源だということを、将棋に携わる人々がわかっているということだ。将棋の対戦は、普通、棋士が何時間も盤を挟んで対峙する絵になるので、それを画像で流し続けてとても面白いとはいえない。だから、盤外のトピックや、または、新人の連勝記録などの突出した結果のように、目立つところににわかファンの目が行くのは無理もない。

 最近では、ネット放送の対局のアクセス数も増えているようだ。藤井くんの対局姿をみるだけのためにネット動画を繋ぎっぱなしにしている人もいるというが、裾野が広がれば、本当に対局内容に興味を持つ人も増えてくるのかもしれない。強い棋士、強い選手が、ちゃんと育って行くシステムを支えるのは、厚いファン層だ。

2017年8月31日 (木)

チェロ療法士?の、誕生

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 入院後、八月の初旬に急性期を抜けてリハビリ科に転科して少し経ったころ。
 リハビリには、日常生活のほか、職業復帰の目的もあるわけだが、自分の場合は、チェロが仕事。主治医の先生と、方法はないものかと考えていたところ、その年の二月ごろ、野外での演奏の趣向として入手していたエレキチェロを思い出した。アンプを通さなければ音は小さく、病院でも弾けそう。左麻痺だし、ボウイングのれんしゅうではないのでうってつけである。主治医と作業療法士(OT)の先生方も協力してくれて、持ち込んで弾いてみることになった。

 その日は、八月十三日の金曜日だったはず。まだ歩行も、やっと立ち上がり、補助の平行棒を使って、伝い歩きをしているような時分であった。いざ弾くとなると、家内や先生方のほうが、心配していた。弾ける、弾けないではなく、弾けなかったことに対して僕自身が絶望するのではないかということを。
 
 当の本人はさほどではなく、弾けると楽観していたわけではもちろんないのだが、もともとたいしてうまくもないんだし、という塩梅で。

 果たして、数人が見守るプチコンサート状態で、弾いてみた。
 指は早く動かないだろうから、サラバンドを。

 OTさんのおかげで、腕はすこし上がるようになっていたが、やっと座ってみると、体幹がふにゃふにゃ。指が弦に触れると、感電したような強く痺れた感覚になり、弦もポジションもわからない。腕全体には、何もしてないのに、数時間連続して動かし続けたような強いツッパリ感と疲労感があり、ほんの少し動かしただけで、実際にすぐ疲労する。

 なにをやっているのか自分でもよくわからないなかで、数分間、いや実際には一分もなかったか、一応音を出してみた。
 
 ミミズがのたくるような文字、という表現があるが、おそらくそんな音だったように思う。主治医が、「さすがプロ、弾けてる」といってくださる。それを聞いて、「複雑な思い」だったり「逆に落ち込ん」だりしたらちょっとかっこいいように思うのだが、単純にうれしかった。「そうでしょう!」と軽口の一つも叩けば良かったのだけど、少し疲れた。

 その日から、リハビリの一環でチェロをさらうことになった。でも、OTさんにはチェロのリハビリは無理なので、弾けなくなった自分に、自分自身が教えるしかない。そう、言うなれば、日本には数少ないセラピスト、チェロ療法士?の誕生である。

2016年4月26日 (火)

何が変わったのか、何が変わっていないのか。

「もしもし、N山さんのお宅でしょうか?サイトウと申します。H子さんいらっしゃいますでしょうか。」
 何度も暗唱する。時には少し声に出してみる。目的の相手と話すことが恥ずかしいわけではほとんどない。相当な確率でその子以外の家族が出ることが予想されるからだ。母親かもしれないし、父親かもしれない。昭和のオヤジは怖い。兄弟や祖父母であるかもしれない。家族構成はよく知らない。そんなことまで話しができる距離感ではない。簡単に異性に話しかけられる、同じクラスのちょっと悪い奴らをバカどもめと影で罵りながらも、ややうらやましい。
 誰にでも見透かされているような不安感。でも、あくまで学園祭の連絡事項を伝えるだけなのだ、見透かされてもやましいことなどないと、自分に言い聞かせる。
 そうして何度もリハーサルをしたあげく、中学生の僕がどんな電話をしたのかどころか、実際に電話をかけたかどうかすら思い出せない。電話機はダイヤルだっただろうか、プッシュ式だっただろうか、それすら思い出せないのに、その時の気持ちを明確に思い描けるのは僕だけじゃないはずだ。
 wikipediaによると、電話機の自由化が1985年、その前からプッシュホンはあったが、おそらく一般家庭は黒電話の時代だな。こんなことが指を数センチ滑らせれば調べられる時代の子供には想像し難いシチュエーションだろう。何が変わったのか、何が変わっていないのか。

2016年2月 3日 (水)

ジュレーム!

 我が家の女子たちは”嵐”のファンなので、”ジュレーム”という名のシャンプーのCMに反応します。相葉くんと松潤がやっているので。

 さて、”ジュレーム”はフランス語に由来するのでしょう。"Je l’aime”ですかね。同じような響きのものに”ジュテーム(Je t’aime)”があります。これは、「君を愛してる」ということで、前者は「それ、好き!」ぐらいかな。aimer や、英語の to love に、ときには「愛してる」と当てたり、単に「好き」とあてたり、日本と欧米の文化の違いで、日本語で「愛してる」といいえば、いまだ尋常ならざる心情なので、状況によって区別する必要があるでしょう。

 それはおいといて、英語なら、”I love you” であり、イタリア語だと”ティアーモ( Ti amo)”、ついでにドイツ語だと"イッヒリーベディッヒ(Ich liebe dich)” ですね。英語はともかく、ティアーモなんて歌謡曲のタイトルですかね。昔はヒデとロザンナがティアーモティアーモって、愛の奇跡ってやつか。今はティアーモといえばexileらしいすね。 ロザンナママの方は、今は娘のお付きでEテレのイタリア語講座に出てます。

 で、これらの違いが、面白いと思うのですわ。ぼくら、英語を習いますよね。だから、主語、動詞、目的語の語順で I love you っていうのを覚えるんですけど。フランス語も、動詞の人称変化はあるけど、だいたい、似たような調子で最初習ってみる。ところが、”ジュテーム(Je t’aime)”は違うんですね。Je te aime が省略された形で、ぼく、君、好き、の順だから、主語、目的語、動詞ということになりますね。目的語が代名詞のときは、こういう順になったりする。まあそんなもんなんでしょう。

 ところがさらにイタリア語になると、”ティアーモ(Ti amo)” 、Ti=君、amo=愛す、で、主語もなくなっちゃう。イタリア語ってよく主語を省略しますよね。比較的英語的なのは、ドイツ語ですかね。

 確かに言語学者によると、ドイツ語と英語は近い関係にあるそうです。イタリア語とフランス語は、ローマ帝国の制服によって普及したラテン語に由来するので、似ています。そういう言語をロマンス語というそうですが、ポルトガル語やスペイン語もそうです。よく似ています。似てるはずなのに違うのが、ジュテームとティアーモ。カタカナで書くと、全く別物。aimer と amore という動詞は似てますね。

 イタリア語のamoは、私= io に対する人称変化です。だから、amoは、単に「愛する」というよりも、それだけで「私は愛する」とわかるから、io は省略されるんでしょうね。ラテン語には、同じような理由で、ほとんど主語はなかったそうですから、引き継いでいますね。

 でも同じロマンス系のフランス語はほぼ主語を省略しません。同じように人称変化はあるのに。フランス語は発音しないスペルが多いからそういう関係もあるんですかね。ラテン語も、ローマの辺境の方言になると随分変わっちゃてるってことでしょうか。

 英語とドイツ語も似てるような似てないようなですけど、そういう言語の系統って、生物進化に似てませんか。元になる生物があって、それが分岐していく。親から子に遺伝しつつ、突然変異で分岐していく。

 そういうのを垂直遺伝というそうですが、生物でいう水平遺伝に似た現象も、言語にあるようですね。たとえば、フランス語には、英語と同じスペルで同じ意味の単語が多くありますが、これは、イギリスとフランスの歴史的交流による外来語が母国語化したものだそうです。まさに、水平遺伝ですね。

 嵐のシャンプーのCMを見て、つらつらこんなことを考えてみました。

2015年8月13日 (木)

〝火花〟が、案外面白くなくて

 9月号の文藝春秋が手に入ったので、話題の又吉さんの〝火花〟を読んだ。勝手に少し期待していたのだけど、案外面白くなくて、ついでじゃないけど羽田圭介の〝スクラップアンドビルド〟をよむと、これが存外面白かった。

 よほどのことがなければ芥川賞受賞作を食いつきで読む事はないのだけど、今回よほどのことであった又吉さんのおかげで、自分の好きなタイプの小説に出会えた。図らずも羽田さんが「アウトデラックス」で話していた通りになった。少なくともぼくに対しては。
 純文学であっても、僕は、大衆的なミステリオーソを求めてしまうのだが、主人公と祖父との戦争体験のやりとりに、ピリッと辛い山椒のようなエニグマがあり、それがこの長さの小説に丁度いい隠し味になって、ぼくの味覚を満足させてくれた。
 
 又吉さんの単行本が200万部を越えたからといって、別に逆張りの買いをしているのではない。そんな度胸はぼくにはない。それを差し引いた上でも、素直に楽しむことができた作である。どうぞ、お試しを。品切れでなければ、文藝春秋9月号をお勧め。同号掲載の川上慶子さんのお兄さんの手記にある詩には、おおいに泣かされる。

2015年1月23日 (金)

ペンフィールドのホムンクルス

 復活を喜び、元気を気遣っていただくブログやフェースブックのコメント、ありがとうございます。

 病気の事もあって、以前より自分の脳について興味を持つようになった。
 僕の出血部位は、右視床。交差して、左マヒとなった。
愛すべきホムンクルスの大事な通り道を塞いでしまったのだ。

 幸いだったのは、言語や意識にほとんど障害がなかったこと。意識そのものについては、研究の最先端でわかってない事も多いというが、自覚的にわかることは、運動や感覚を伴わなくても、それが脳の中だけで起こっているらしいということ。だから、こびとが行き来できなくても、そこに強く存在し得たのであろう。そして、言語。これが、もし反対側だったら、言語に障害が出るリスクは高かったらしい。

 意識がはっきりと在り、それを表現できる言葉ががあること。それがその後の回復、そして今も、どれだけの推進力なっているか、はかりしれない。


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