復活のチェロ
左手が動かなくなってから、人前で演奏する意味を考えて来ました。倒れた当時、入院していた頃は、破壊の後に生まれる新しい芸術などという、半ばやけくそ、半ば強がりなことを夢想し、たまにリハビリで言語聴覚士に語ってみたりしたこともありましたが、退院し、社会復帰をするにつれ、現実感を取り戻すとともに、結局残るのは、動かないという事実のみ。
ただ、うまく弾けなくとも、その左手でリハビリがてらチェロを弾くこと自体は、消耗は激しいものの、苦痛ではなかったのが救いといえば救いだったかもしれません。その後遺症が癒えていくことを強く願っていたわけではありません。というのも、3年、4年と経つうち、動きが良くなる様子は、思うほど改善していかないことが段々わかって来たからです。
なので、それを、願いではなく、課題と考えることにしました。課題なら、一生かけて解決しようという気持ちが、生きがいに出来るから。
でも、それを人前に晒すのにどんな意味があるのか。正直、一年半前に真実一路さんに演奏を誘われた時は、もっと良くなっているつもりでした。実際は、課題は思ったより難しかったのです。
意味などよく分からず、そうこうしているうちに、演奏の日は近づいて来ました。
そして、演奏は20分足らず、やはりつたない演奏になりました。
ところが、予想しなかったことが起こりました。演奏しているうちにだんだん楽しくなって来たのです。たったこれだけの時間で、左手はどんどん動かなくなり、音も取れなくなって来ました。語りをしてくれた妻も、会場も、僕も涙していました。でも悲しくも、情けなくも、恥ずかしくもなく、それはとても楽しかったのです。
会場の不思議な一体感は、僕がこれまで経験したどんな演奏よりも心地よいものでした。人前で演奏する意味を、考える必要はなかったのです。ただ演奏すればよかった。そして、皆さんが作ってくれたその場に、ただ居さえすればよかった。そのこと自体が奇跡に感じられました。
この演奏ができたことを誇りに思います。ありがとうございました。
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