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2014年2月24日 (月)

真央ちゃんありがとう

 皆も語ると思うが、僕も今のうちに語らせてもらおう。

 どんな五輪であっても、われわれは、自分の国日本から参加する選手に期待をする。「スポーツは結果がすべて」であると大きな声では言わないが、メダルの色や個数を期待する。また選手たちもそれを十分承知の上で競技を行い、むしろより高いところを自ら望んで取り組む。「メダルの色よりも」とか、「自分に打ち勝つ」といった言葉は、きれいごとでもいいわけでもないにせよ、プレッシャーをはね除け、それでも結果を残すためのるための自分自身への励ましなのだ。

 モーグルの上村選手や、ジャンプ の高梨沙羅選手がメダルを逃したとき、我々は健闘を称えることを惜しまないながらも、どこかで、メダルが取れていたらなぁ、という悔しさを選手とともに共有している。そしてそんな感覚は、結果を求めるスポーツとしては、見る方も競技する方も当然のことと思われていた。

 そんな価値観を、真央ちゃんはすべてひっくり返してしまった。真央ちゃんのフリーの演技は、何度もテレビで放映され、僕はその度必ず涙する。なぜなのだろう。そこにはストーリーがあるからだ。SPでの失敗とその失望感があったからだ。FSの演技は完璧であった以上に、それに至るプロセスが、勝負と結果を越えてしまったのである。

 こんなことは、だれもが想像しなかったのではないだろうか。真央ちゃん自身も含め、彼女が演技が終わって天を仰いで涙するまで、よもやこれほどの感動を世界中に呼び起こすとは。もちろん6位入賞という結果はそれだけでも素晴らしい。しかし、彼女の演技は、その結果がどうであれ点数がどうであれそれはもうどっちでもいいと思えるぐらいの感動を呼び込んだ。だから、皆は彼女に呼びかける。「おめでとう」ではなく「ありがとう」と。なんと、彼女はその結果ではなくプロセスで、結果を得たよりも多くの幸せを、皆に与えたのだ。彼女の演技に、何事かをやり続けていくこと、生き続けていくことをあきらめない元気をもらった人々はいったい何万人、何百万人、何億人いるだろうか。

 「努力は報われるものだ」とか「結果よりプロセスが大事だ」などという、下手をすれば単なるドグマになりがちなフレーズを、実践して証明することは難しい。それらが大きな感動的な結果を呼び込むのは、フィクションの中だけと、たいがい相場は決まっている。つまり、真央ちゃんが引き起こした出来事は、正に「事実は小説より奇なり」であり、正に「人生は筋書きのないドラマ」であることを、たった二日間で証明してしまった。この感動は、真央ちゃんが金メダルを目指し目一杯努力していたからこそ生まれた、現実のストーリーなのだ。

 現実だからこそ、しばらくこれを越えるような感動はないかもしれないとさえ思う。やっぱり僕も言っておきたい。「真央ちゃんありがとう」。

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