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2013年4月 8日 (月)

ルソー〝エミール〟での「移動ド教育」の主張

 フランスの啓蒙思想家、ジャン=ジャック・ルソー著、〝エミール〟(岩波文庫、今野一雄訳)を繙いていたところ、たまたま、音楽教育に関する一節を見つけ驚愕した。この一節は、以前僕が書いた記事「失われた移動ド 」と同じ主張である。ルソーのエミールと言えば、250年ばかり前に書かれた教育書であり、ルソーの慧眼は論を待たないにしても、フランス音楽教育が250年前にやった失敗を、いま日本が繰り返しているということだ。極端に言えば、日本の音楽教育は、ヨーロッパに250年の遅れをとっているということだろうか。

 その部分を、まるごと抜粋させていただく(上記文庫上巻第二編、254pより)。ルソーがどれだけ言を極めて、固定ド唱法を批判しているかがよくわかる。

”音をよく示すには発音してそれをはっきりさせる。そこからある種の綴字で音階を唱える習慣が生じた。度数を区別するには、それらの度数とそのきまったさまざまの関係とに名称を与える必要がある。そこから音程の名称、そしてまた、アルファベット文字による名称が生じ、これによって鍵盤の鍵と音階の音を示す。CとAは一定の変わらない音を示し、つねに同じ鍵によって音を出す。ut(注:日本で言うド)とlaはそれとちがう。utはつねに長旋法の主音か短旋法の第三音である。laはつねに短旋法の主音か長旋法の第六音である。こうして、文字はわたしたちの音楽組織の中の釣り合いの不変の関係をあらわし、綴字は違う調における同じような釣り合いの対応する関係をあらわす。文字は鍵盤の鍵を、綴字は旋法の度数を示す。フランスの音楽家はこの区別を妙なぐあいに混乱させてしまった。かれらは綴字の意味と文字の意味を混同してしまった。そして鍵の記号を無用に二重化して、調の和音を表す記号を残しておかなかった。そこで、かれらにとってutとCはいつも同じことになる。そんなことはないし、ありうるはずもない。そうなればCはなんの役に立つのか。だから、かれらの音階唱法は極度にむずかしいものとなり、しかもなんの役にもたたず、精神に明確な観念をあたえることにならない。この方法によっては、たとえばutとmiという二つの綴字は、長、短、増、減三度を同時に意味することになる。世界で音楽についてもっともりっぱな書物が書かれている国が、なんというふしぎなめぐりあわせで、音楽がこのうえなくむずかしい方法で学ばれている国にほかならない、ということになったのか。(中略)フランス人が自然の音階唱法と呼んでいるものほど奇妙なものはない。それは事物に即した観念をしりぞけて無縁の観念でおきかえるのだが、これは人を迷わせるだけだ。旋法が転置されているとき、転置によって音階を唱えることほど自然なことはない。”

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